春日の局と興禅寺
春日局(幼名お福)誕生の伝承
春日局がこの興禅寺で生まれ育ったという伝承は、ずいぶん古くからこの地に根ざしています。明治生まれの古老が、祖母から聞いたというほどで、おそらく江戸時代から受けつがれた、史実にもとづく古い伝承でしょう。
斎藤内蔵助利三 黒井城に入る
事実、『稲葉家・御家体系典』には、「春日局を乳母となし、局頭と称して春日局と号す。これすなわち、丹波国氷川(上)郡春日井庄の生所をもってこの名をなすという。」とはっきりと明記されています。
この歴史的事実は、多くの人々に語りつがれ、今もふるさとの人たちの心の中に生き続けています。
お福の父は、明智光秀配下の名将とうたわれた斎藤内蔵助利三、母はお安といいます。
天正三年(一五七五)、天下布武をねらう織田信長はその部将明智光秀に丹波攻略を命じましたが、丹波国人衆の抵抗ははげしく、なかでも、最後までこれに抗したのは、多紀郡の八上城に擁する波多野秀治と、黒井城の荻野(赤井)悪右衛門直正でした。
天正七年(一五七九)六月、明智勢の前にまず八上城が落ち、つづいて八月、すでに前年、城主の悪右衛門直正を病気で失っていた黒井城が落城して、丹波の戦国史はここに終わりをつげました。

その戦後処理のため黒井城に入ったのが、光秀の重臣斎藤内蔵助利三です。
利三は、黒井城の下館(現興禅寺)を陣屋として、西丹波一円の治安に当るとともに、領民をいつくしみ善政をしました。
現在、北の城下にあたる白毫寺(市島町)には、天正八年七月、利三が門前地下中に宛てた、次のような軍役免除の下知状が残っていて、その一端をうかがうことができます。
白毫寺へ還住の衆僧、当陣人足の儀 用捨せしめ候おわんぬ。
その意をなすべき候也。
天正八 七月二十三日 内蔵 利三(花押)
門前地下中
利三は、あらたに主君明智光秀の居城となった亀山城(現京都府亀岡市)と往来を重ねながら、天正九年の終わりまで、足かけ三年、この陣屋に住みました。
地元では、この陣屋跡(現興禅寺)を「斎藤屋敷」と呼び、すぐ下を通る道を陣屋町、近くにある四つ辻を、札場(各種の高札を立てる場所)と伝承しています。
お福の生い立ち
長い戦乱がつづいて荒れはてた丹波の地にも、ようやく平和がよみがえり、戦火をさけて他の地に移っていた領民もぞくぞく帰ってきて、黒井の城下も再び活気をとりもどしました。そのころ、斎藤利三は坂本の城にいた妻のお安と子供たちを、この陣屋によび寄せました。
そしてこの年、天正七年の年の瀬もおしせまったころ、呱呱の声をあげたのが後の春日局、幼名お福です。
お福は、両親の愛情をいっぱいに受けてすくすくと成長しました。毎日のように広い陣屋の庭や、城下の野山を飛びまわり、その可憐さと利発さは、城下の領民たちの目をひき、“斎藤屋敷のお福さま”と呼ばれて、誰からも愛されました。現在の興禅寺には「お福の産湯井戸」「お福の腰かけ石」などが残り、往時をしのぶよすがとなっています。

お福は、物ごころのつく三才の冬までこの地で育ち、天正十年、四才の春には丹波亀山の城にいきましたが、父利三が“本能寺の変”の役“山崎の戦”で羽柴秀吉に敗れ、死がいとなったまま京都ではりつけにかかるという悲惨な姿目の前に見ています。
この日を境にして、お福の境遇は大きく変り、後年春日局となって波乱に富んだ生涯を終るまで、いつもなつかしく頭の中に去来するのは、幼いころ、のどかな自然の中で、両親と、そしてあたたかい城下の人たちに囲まれて育った、この黒井の陣屋での、平和で楽しかった三年の年月であったといわれています。


